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アーサー王大百科

マロリー

人物紹介

アーサー王の死』の作者が、ウォリックシャーのニューボールド・レヴェルのサー・トマス・マロリーであることが、P・C・フィールドによって証明されている。時代と場所がほぼ合致するトマス・マロリーは三人いるが、昔からこのマロリーがどうもそれらしいと考えられてきた。しかし学者や文学愛好家たちは英語で書かれたアーサー王物語の最高傑作がこの人物の筆からうまれたと考えることに、あまり乗り気ではなかった。というのも、その生涯について今でも知られているいくつかの事実は、この男が凶悪な犯罪者で、幾度も長期間にわたって投獄された経歴を示しているからである。

生涯

ニューボールド・レヴェルのトマス・マロリーはおそらく1415年頃に弱小の地方紳士層の一族に生まれたと考えられている。一族は小規模な荘園を所有し、治安判事をつとめ、ときには国会議員に選出されることもあった。父親ジョンは1433年に死去し、マロリーは大きくはないが十分な遺産を引き継いだ。1440年頃には貴族の称号を得ている。1443年、マロリーと義理の兄弟のユースタス・バーナビーはノーサンプシャーで起きた武装強盗事件の容疑者となった。しかしこの容疑は証明されず、マロリーは法廷に立たされることなく終わった。

1445年ウォリックシャー選出の国会議員となり、エリザベス・ウォルシュと結婚した。1450年にはドーセットのウェアハム選出の国会議員となっている。これにはヨーク公の後押しがあった。マロリーはこの庇護者の政敵であったバッキンガム公に激しく敵対していた。1450年1月4日にはバッキンガム公暗殺のため26名の手下とともに公爵を待ち伏せしたかどで告訴される。有罪にはならなかったが、1450年にはさらに窃盗、強姦、ゆすりなどの容疑で訴えられた。翌年マロリーはウィルトシャー州カルドンにある公爵の領苑における家畜泥棒と鹿の密猟の科(とが)で告訴されているが、これは公爵に対する攻撃の際のひとつのパターンとなっていく。このときには有罪の判決が下り、1451年7月に投獄された。ところがマロリーは脱獄に成功し、2日のあいだに二度コウム僧院に押し入り、各種宝物や金銭を盗みだした。まもなく捕らえられ、以後の10年間のほとんどの期間を牢獄で過ごした。1454年には保釈金により短期間のあいだ自由になったが、マロリーはこの機会を利用してまたぞろエセックスで強盗をはたらくしまつで、すみやかに牢獄に逆戻りとあいなった。

1462年には、前年にヘンリー6世を退位に追いこんだ、ヨーク派の国王エドワード4世の戴冠にともなって、大赦が発令された。この事典でマロリーがヨーク派についていたことは間違いない。その冬にエドワード王がランカスター家の拠点を次々と包囲攻撃していった際、マロリーはエドワードの軍に参加していたのである。しかし1468年の時点でエドワード4世がふたたび大赦を行なった際、マロリーの名前は15人のとくに赦免されない者のリストにあげられている。どうやらマロリーは陣営を変えたようである。マロリーの傑作が執筆されたのは、この最期の牢獄生活の中であった。

図説アーサー王物語

索引

協力

  • 原書房
  • 東京大学大学院
    総合文化研究科 教授
    山本史郎